モトミの旅のエッセイ 〜2002.冬。〜
6年ぶりの沖縄


プロローグ  1月1日朝・那覇空港にて

6年ぶりの沖縄。人は何を求めて沖縄にやってくるのか。
輝く陽光。そよぐヤシの葉。南国への憧れ。
コーラルリーフとビーチバカンス。
あるいは、日本の中で圧倒的な独自性を保持している沖縄文化・
地誌・歴史への興味。
もしくは。安保条約をめぐって、いまだ解決されない土地問題。
生々しい基地問題。国際平和と民主主義の行方を探るため・・・
いろいろありすぎて、焦点を絞りきれないまま、
こうやって那覇空港まで来ちゃいました。
ま、とにかく4日間、見られるだけのものを見て回りましょ。
沖縄に何を求めるか。
それによって、あなた自身の心の状態がわかります。
なあんて。心理テストにならないかな。

1. 1月1日・読谷(よみたん)で道に迷う

まず琉球村を見学したあと、読谷の座喜味城跡へ向かう。
山の中腹にあって、なかなか堂々たる史跡。
こちらのお城に比べると小ぶりだけれど、石垣がそっくり残っています。
今話題の、世界文化遺産に指定されています。
戦時中は、ここに日本軍が高射砲を据えつけたとかで、
米軍の攻撃目標になって、コテンパンに破壊された。
歴史文化史跡の中ならば、敵の攻撃の手が少しは緩むと思ったらしい。
首里城内にも日本軍の駐屯拠点があったそうで、つまり日本軍は
琉球の歴史文化なんて、何とも思っていなかったことになります。

見晴らしがすごく良い。ここから米軍の軍事施設が見えます。
いわゆる「象の檻」と呼ばれている(そんな形に見える)レーダー施設。
バカでかいものです。潜水艦のスクリュー音を聞き分けて、
どこの国籍の船か、判別できるのだそうです。
この「象の檻」は、まもなく金武町へ移設されるそうです。
それについては、金武町から取り引き条件が出されているそうで、
関係施設の職員は金武町民を優先的に採用して雇うこと。
土砂が金武町とか、太平洋側に流出しないように処置すること。など。
どこかの観光バスのガイドさんが自分のお客さんの前で説明しているのを、
私はずっと耳をすまして傍受しております。

読谷一帯は、起伏の多い丘陵地帯。起伏にあわせて道路は褶曲し、
住宅地とさとうきび畑と、野菜畑と荒れ地と、荒れ地の一部は特に柵が
施されているわけではないけれど、やっぱり軍事基地の一部
なのだそうです。
城跡から遥かに眺めれば緑のじゅうたんのようにも見えるけれど、
さとうきび畑の間を強い北風に吹かれながらテクテク歩いていると、
ずいぶん荒涼とした眺めです。
このあたり、路線バスは2時間に一本くらいしか来ない。
ロクな地図もないし、いいかげんに見当をつけて歩いているうちに
道を間違えたらしい。
さんざん歩きまわって、だんだんお腹も空いてくるし。
特に観光地というわけではないから、1月1日にはどこもお店は
閉まっているし。
やれやれ困ったな。これじゃ帰れない。だんだん日も暮れてくるし。
お腹すいたー。最悪
そこらへんの家に駆け込んで、タクシーを呼んでもらおうか。
ようやくバス道に出る。とたんに、目の前をバスが行きすぎる。
ああ・・・バスが行ってしまう・・・あのバスを逃がすと、次はあるのか。
そんな私の表情に気がついたのか、何とバスが止まってくれました。
やれありがたい。

かくして。無事、私はバスに拾われて、次なる目的地・北谷と
向かうのでありました。
目的地の一つ。「チビチリガマ」は訪ねあてることができませんでした。

2.  1月1日・北谷(ちゃたん)で見たもの

北谷に新しくできたアメリカン・ビレッジ
大きな観覧車を乗せた建物があります。
ファーストフード。軽衣料雑貨。映画館などのアミューズメントパーク。
広い敷地にそんなものが集まって一大ショッピング・タウンを形成してます。
お正月ということもあって、たくさんのクルマと人。主に若い人たちで
いっぱいににぎわっています。
私の知ってる限りでは、明石郊外のマイカル・サティ。
熊本南のダイヤモンド・シティなんかもこんな感じでした。
日本中のどこにでもあるような郊外型のショッピング・タウンが
ここにもできたというわけです。
あとで聞いた話によると、こういう新しい一般県民向けの遊び場が、
今まで沖縄にはなかった。
一応、海洋博あとの公園にはあるけれど、名護市の先だから、
行くには遠すぎるのだそうです。

とりあえず、一番手近にあった回転寿司の店にはいって、腹ごしらえ。
フツーの店ですね。メニューもこちらのと、全然変わらない。
獲れる魚だって、こちらと沖縄とではずいぶん違うだろうに、
無理にこちらに合わせているのかな。
わずかに沖縄らしいのは、アルバイトの若者たちの名札だけ。
「呉屋」「喜友名」「瑞慶山」「仲村渠」こちらではまず目にしない
名字が並びます。
ちなみに4番目のは、「なかんだかり」と読みます。
普通の可愛い女の子です。

この一角の、ファーストフードのお店に、「ルートビア」という
ケッタイな飲み物を売っています。
その筋ではワリと有名なものらしいです。
アメリカの禁酒法時代に、代用の清涼飲料として開発され、
数種類の薬草を甘く飲みやすく調合したもので、とても体に良い、
と説明されてます。
飲んでみましたが、風邪薬のカイゲンをコーラに入れたような感じの
ものですね。沖縄名産のウコンもはいってるみたいです。
ま。話の種に、一回飲んどきゃ十分ですね。
こんなもの飲まなくとも、ちゃんと禁酒はできますよ。

さて。なんだかここだけ、全然沖縄ではないみたい。
ちっとも沖縄らしくない
その違和感を、さっきからずっと感じているのだけれど、
ではいったい、沖縄らしさって何だろう。
我々ヨソ者が何と言おうと、
ここは大勢の沖縄県民に支持されてるわけだし。
既成の「らしさ」にとらわれていてはいけない。
時代とともに沖縄らしさも変わる。
沖縄の若い人たちは、既成の「沖縄らしさ」を背負い続けるのが
嫌になって、脱沖縄化を目指してるんじゃないか。
そんなことをふっと感じました。

沖縄らしさ、伊丹らしさ、正月らしさ、男らしさ・・・
いろんな既成概念を洗い直して自分のアタマで本質を考えてみる。
新しい時代を迎えるにあたって、そのくらいやらなきゃ。
脱線した上での、一つの結論

伊丹のMちゃんの友達で、Nちゃんという女の子が働くお店が、
ここ沖縄・北谷にあります。
彼女がそのお店で歌っている、ということで訪ねてみました。
午後7時。
お店の下で、ちょうどNちゃんが出勤してくるのと出会いました。
「本当に来たんですね」「来るって、前から言ってたやん」
南国的な開放感のある、新しくて広いお店です。
Nちゃんは十人足らずのメンバーからなるバンドで、
ヴォーカルをやっています。
Nちゃんのお化粧直しの間、ギタリストでバーテンダーのKクンが
相手してくれました。
 「このお店、よそから働きに来てる子、多いの?」
 「そうですね・・・男はみんな、沖縄の人ばかりですが、
  女の子はみんな・・・全員、よその県からの人ですね。」
 「へえ。それはまた、なんで?」
 「さあ・・・面接の時、それが基準になってるみたいですよ。」
県内の女性は採らない。
採用基準がそれだとすると、どういう理由によるのだろう?
今もって、私には解けておりません。皆さんならどう解釈しますか。

Nちゃんの同僚の女の子が一人ずつこちらにやってきます。
Rちゃん。22才。小柄でしっかりしてる。奄美大島出身。
滋賀県にいたことがあり、関西のことは、わりと詳しい。
Yちゃん。25才。岡山県出身。トロンボーンを吹いてたことがある・・・
みんな、Nちゃんと同じくヴォーカルです。
8時から、ライブステージが始まりました。
30分間で十曲ほど歌います。
この間、お客さんは私のほか、カウンターの角に女性が一人。
このお店のもとスタッフのようです。
あと、男女4人のグループが、テーブル席をひとつ占めました。
お店は7時から午前3時まで。
夜はまだ始まったばかり、といったところでしょうか。

みんな若いのに、歌う曲はワリと古い。60年代から70年代のポップス。
まさか私に合わせてくれたわけでもあるまい。
「ルイジアナ・ママ」とか、ザ・ピーナツの「恋のフーガ」が出たのは、
ちょっと驚いた。
カウンターのわきで、手拍子を打っているスタッフのPちゃんは22才。
東大阪出身。沖縄へ来て2年。
 「家族は、帰っておいでって言わないの?」
私もまだ慣れてない。余計なこと聞いちゃった。
5月と11月に、一度ずつ帰った。
関西は狭いし、電車は混むし・・・とのこと。

この日、私は名護に宿を予約しています。バスで2時間くらいかかる。
残念だけど、最終のバスがそろそろ来るから、ちょっと早いけど帰る。
8時40分。Nちゃんにお礼を言ってお店を出ました。

3.  1月2日・伊江島行

大城貞俊という人の「椎の川」という小説を読んで、
伊江島の存在を知りました。
戦時中、激しい攻防戦のあったところです。
沖縄本島で召集を受けた人が大勢この島に連れて来られて、
圧倒的優勢なアメリカ軍に向かって無理やり突撃させられて
犠牲になりました。
小説の主人公もその犠牲になった一人です。
悲惨でかわいそうで、とても読んでられないような本でした。
伊江島は、今は平和なリゾート地ですが、
一部には米軍基地が、まだかなりのスペースを占めています。

名護で早起きして、本部港までバスで30分。
フェリーに乗って、伊江島まで40分。
南北3キロ。東西8キロほどの小さくて平たい島。
中央部に「タッチュー岩」という名の大きな岩山があります。
伊江島ではレンタサイクルを借りて、島を一周しました。

アーニー・パイルという人の美麗な石碑があります。
立派な仕事をして、ピュリッツァ賞を取ったカメラマンだそうです。
従軍記者としてこの地に来て、日本軍の弾に当たって亡くなりました。
パイルさんに何も文句はないけれど、一方では石碑はおろか、
お墓もお骨もないままの戦没者が大勢おられるのにと、ちょっと思います。

ニャティヤ洞という洞窟が海のそばにあります。
大きな洞窟で、千人くらいも人が入れそうなので、
千人洞とも呼ばれたそうです。
もとユタ(沖縄独特の巫女)信仰の聖所であり、
戦時中は避難所に使われました。
この洞の中に一人ではいって、ドドーン、ドドーンと
間断なく繰り返す波の音を聞いていました。
ここへ避難した人は、心細かっただろうな。
夜なんか、どんな気持ちで過ごしただろう。

照大寺。 薩摩が琉球にやってきた頃に建てられたお寺。
戦争で跡形もなくなったけれど、そばにあった権現堂だけが
奇跡的に被害を免れた。
そこだけ、古い建物と石畳とそれを覆い包む木々が
お寺の由緒の名残をとどめていて、
伊江村の指定遺跡になっています。
島の「お宝」の一つですね。

ゴヘス洞。 6万年前の鹿の化石が見つかったという洞穴。
そんな古い時代の遺跡が、沖縄には結構見つかっているみたいです。
原野のように残された土地が沖縄にはまだいくらもあって、
有史・先史を問わず、古い遺跡がまだまだこれからいくつも
見つかるような気がします。
この洞から道を抜けてくると、
目の前に島の中央のタッチュー岩が見えます。
あの岩は二億年以上も前に生成されたものだそうです。
この洞の原人たちもあの岩を朝な夕な眺めたでしょうか。
戦争もアメリカも、まだなんにもなかった時代

自衛隊の伊江島飛行場。今は使われていません。
建物にはシャッターが下り、木板が打ち付けられ、
何十年も経っているようです。
広い滑走路も、無為に時を刻んでいる感じです。
青少年はここでタムロしてはいけない、という意味の看板がありました。
看板くらいで効き目があるようなら、青少年と言えますまい。

湧出(わじー、と読みます)。伊江島の北岸は、断崖絶壁となっていて、
北風がビュービュー吹きすさぶと、なかなかものすごい光景。
この崖の下に、不思議なことに清水が湧き出す場所があるのだそうです。
島では水は貴重。
昔の島民たちは、水を求めてこの崖を上り下りしたということです。
水汲みは主に女性の仕事だったようです。

反戦平和記念館
戦後、米軍に強制的に土地を奪われ強制退去させられた人々が、
ずっと土地の返還を求めて運動を続けています。
すさまじい、戦争のような人生だと思います。
 「政府は、戦争を準備するときには、まず国民を愚民に教育し、
  世の中の真実が分らないにする。
  教育によって騙されないように、
  独自に平和のための学習をしなければならない」
この人たちの主張はずっしりと重い。
当事者が年老いていくにつれて、運動を継続していくべく、
この運動グループは法人化されました。
その運動拠点がここ島の東端にあります。伊江島ビーチのすぐ近くです。
運動を継続展開してきた足跡の資料が展示されています。
定期誌なども発行されています。
戦争はまだ終わっていない。ここではそんなふうに感じます。

4.  1月2日・山原(やんばる)探訪

名護まで戻ってきて、タクシーで慶佐次(げさし)へ。
沖縄本島の北部を山原と呼ぶけれども、山原東部へ向かうバスは、
本数が極端に少ない。4時間に一本。
行くには行けても、帰りの足がない。
しかたがないので、奮発してタクシーに乗る。

山間部の道を辿ると、山々と木々の間をぬって走る道路以外に何もない。
すれ違うクルマの数も少ない。
悪いことに、タクシーのおっちゃんも無口です。
ほんまに、何もないところやな。
きっとこのへんは、米軍の領分なんだろうな。
もし米軍基地がなければ、今ごろは観光用に本土の資本で
乱開発されてるかも。
何もないところには、『何もない』がある」なんて言葉を思い出しながら、
こういう素朴で自然な眺めが今や貴重であることを思う。

慶佐次は河口になっていて、マングローブの林があります。
マングローブというのは、幹の下のほうが何本にも枝別れしていて、
それが「足」みたいに見えて、なんだかそのまま歩き出しそうな感じに
見える、ケッタイな恰好の木です。
川の中を、ぎっしり密生して植わっていて、なかなか壮観です。
「バーナムの森が歩き出す」なあんて、
シェイクスピアの物語の文句が頭に浮かびます。
森厳」という言葉がそのまま当てはまるような、
山の緑と川の緑と砂と水しかない、静かな景色です。

慶佐次から南へ、約20キロ。
海沿いの道をクネクネと辿って、辺野古に着きます。
ここにも米軍基地の大きな拠点があって、装甲車やら軍用車が
たくさん並んでます。
この沖合いに、今度大きなヘリコプター基地ができるのだそうです。
もちろん反対運動もいろいろ展開されているようですが、
今度の市長選で現職の市長が当選すれば、
すんなり基地ができてしまうだろうと、無口な運転手さんが言いました。
辺野古は静かな、ひなびた、と言うよりはさびれた漁港です。
お正月なので、余計にひっそりしている感じです。
沖縄本島・中南部の人口密度の高い地域では
米軍基地に対する風当たりが強いので、
人口の少ない地域へ基地を移設するという傾向があるようです。

5.  1月3日・首里の公民館のおじさん

2日の夜にバスで那覇に帰ってきて、
国際通りの「じんじん」でゴーヤーチャンプルー食べて(大変美味)、
それで限界。グロッキー。宿に帰って寝ました。
翌朝はバスで首里へ。那覇から、あっという間に着きます。
首里は6年前に一度行っているので、今回は
入場料の要るところはパスして、
わきにある「竜潭」という名のきれいな池のほとりを散歩して、
金城の石畳の道へと向かいます。

ここは日本の道・100選とかに選ばれている道だそうです。
歩いてみて気づいたのですが、
この道の魅力は石畳だけにあるのではない。
両脇に並ぶ昔ながらの石垣と、そこに根づくガジュマロだの、つる草だの、
赤いレンガ屋根の家々だの。
歩く人はなにも下ばかり見て歩いているわけじゃない。
この道を歩きながら眺める景観に風情があるのです。

我々の町も、タイル舗装ばかり一生懸命になっていてはいけない。
歩く人間の目線に映る景観をこそ、重視すべきであります。
そうでなければ、魅力ある道になどなり得ない。

途中ちょっと(石畳から83mという標識あり)寄り道して、
指定保存されている「アカギ」の大木を眺めました。
指定されているのは全部で6本。いずれも立派な木。
昔からユタ信仰の対象になっているようですが、
なるほどこの木なら、神様くらい宿るかも知れない。
幹の下の方に大きなウロがあって、何かの時には
厳かにしゃべり出しそうに見える木です。

この道の途中には公民館があって、
おじさんがお茶を飲んでいけ、と勧めます。
ちょっとお邪魔してみることにしました。
このあたり、休憩場があまりないから、
昼間は公民館を開放してるのだそうです。
小さな建物です。床の間に、お祭りの飾り物が置いてあります。

長い旗ざおの先に、この大きな飾り物をつけて、
お祭りの日には、若い者たちがかわるがわるかついで
練り歩くのだそうです。
頂上には、色鮮やかに紅型(びんがた)で染め上げた竜の絵を
貼り付けるのだそうです。
今、本物は大事にしまいこんであって、
ここに展示しているのは、カラーコピーです。
全体で45kgもあり、一人がかついで6人ほどで
周りから支えるのだそうです。
おじさんは得意げに説明しています。
1980年くらいまでは恒例行事として、ずっと行なわれていたそうです。
壁に貼ってある写真には「2000年首里サミットまつり」として、
この旗頭(はたがしら、と呼ぶものであるらしい)をかつぐ若者たちが
写っています。しばらく途絶えていた催しを、去年のお祭りを機に久々に
若者達が復興してくれて、おじさんは大いに気を良くしているみたいです。

6.  1月3日・泊の外国人墓地

ペリーが黒船に乗って、江戸を訪れたのと前後して、
琉球にも何度か立ち寄ったというのは
沖縄史の常識だそうです。(えらいすんまへん)
黒船はその時、事件を一つ起こしております。
泡盛(沖縄特産の焼酎)を飲みすぎた水夫の一人が、
酔っ払った勢いで民家に押し入り、女性をレイプしてしまいます。
怒った村人たちは、石を投げつけながらこの水夫を追い回し、
ついにこの水夫は海岸で足をすべらせて崖から転落死してしまいます。

それを聞いてペリーは激怒します。納得できない。
殺人事件を隠蔽しようというのではないか。
被害者の女性は58才。当時としてはかなりの高齢です。
それについても、ペリーは疑問を呈しています。
琉球側も簡単には引き下がっていません。
水夫が死んだのは自業自得である。
被害者の女性は、年齢のわりに肌の色つやが良く、
十分に魅力的なご婦人である、とまじめにやり返します。

業を煮やしたペリーは大砲の威力で琉球側を脅しつけ、
自ら立会いのもとで裁判を開かせます。
やむなく、村人たち数名が流罪、という判決がくだります。
メンツを立てたペリーは、意気揚揚と引き上げますが、
この判決が厳密に履行された証拠はどこにもなく、
結局、黒船が行ってしまったのを見届けてから、
村人たちはさっさと釈放されたのではないか、と言われています。

この時の水夫のお墓が泊の外国人墓地にあるそうです。
行ってみましたが、どこにでもある、普通の西洋墓地です。
事件から140年。実際はどうだったのか、真相はとっくに藪の中です。
街角にある何気ない風景の中に、歴史的な意義を発掘していくのが
郷土史家のお仕事というものです。

7.  1月3日・中城城跡

中城城跡まで直行するバスは極端に本数が少ない(一日に2本)。
普天間というところでバスを降りて、片道3q歩くことにする。
心配ご無用。
初日の失敗に懲りて、
手には昨夜国際通りで買ったばかりの詳細市街地図。
普天間には普天満神宮というのがあって、初詣でにぎわっています。

中城には、読谷のものよりもずっとスケールの大きな
精巧な石垣が残っています。
ペリーもこれを見て感心したということが伝えられています。
ここではボランティアのおじさんが、無料で案内してくれる、というので
頼んでみました。ラッキー!!
城壁もすばらしいけれど、城からの眺めもすばらしい。
ここにデンと城を構えて睨みを効かせれば、
島の南北交通を扼することができます。
はじめ12、3世紀ごろに造られたものを、あとから改造し、
今の形にできあがったのは1440年ころだそうです。
けれども、せっかくお城を立派に完成させたのに、
時の城主は謀略にかかって、城は敵の手に落ちて、
1458年には誰も守るもののない
空き城になったのだそうです。
軍備というものの空しさ。
あのおじさんはそれを言いたかったのかも知れません。
わが有岡城はどうでしょうか。

おじさんは、祖父が石工だったそうで、
石垣の修復工事には詳しいようです。
ここ中城もひどく戦災を受けて、現在も修復工事が
ボツボツと続いています。
けれども人口14000人ほどの小さな村だから、なかなか予算がない。
中城村は、もと一つだったのですが、真ん中に米軍基地ができて
村の中で南北の行き来ができなくなったので、しかたなく
中城村と北中城村に分れたのだそうです。

明治以降、この城跡には役場が建ったり学校が建ったりしました。
戦時中は日本軍が城壁に穴をあけて防空壕を掘ろうとしましたが、
石垣は精巧な二重構造になっていて、ツルハシ程度では
穴をあけることができなかった。
もしも防空壕ができていたら、米軍の攻撃目標になって、
さんざんなことになっていたでしょう。とのこと。

沖縄返還の以前は、このお城は個人の持ち物であったそうな。
ここを遊園地にしようとして、遊具を置いたり、桜などの木々を
植えたりしたのだそうな。
今育っている木はその時のもので、
もともと木など植わってなかったのだそうです。

おじさんによると、昔、350年ほど前は、この東側の海岸には誰も
人が住んでなかったのだそうです。
その頃に中央にいた人々が海岸側に移り住むようになったのだそうです。
沖縄では、どの家も系図をしっかり持っていて、ご先祖さまのことも
350年くらいワケなくたどれる、とモノの本に書いてありました。
事実のようです。
狭い島だから、親類たちがみんなどこにいるのか、すぐわかるし。
祭りの時にはみな帰ってくるのだそうです。

中城の発掘調査が本格化したのは、
つい最近、5、6年くらいのことだそうです。
12・13世紀ころのシャムの器物などが
お城の排水溝あとから大量に出土したのもつい最近のこと。
沖縄ではまだまだ歴史がどうにでも塗り変わる余地があるみたいです。

8.  1月3日・那覇市内のバーにて

中城と、すぐ近くの古い民家・中村家住宅を見学して、
また3km歩いて普天間まで戻り、
途中、浦添の公園など寄りながらバスで那覇へ。
ちょっと腹ごしらえしてから、大阪のI先生に紹介していただいた
若狭町のバーへ。

裏通りにあって、ほとんど常連さんばかりのお店。きれいな内装。
マスターは男前。話題によって硬軟使いこなして、ホドの良い応対ぶり。
先客は全部で五人。カウンターの中ほどにすわった私の左には、
Tさんという大柄な男性が、左右に女の子を連れてきています。

なんでも今度の夏にお祭りをするらしい。
Tさんがその実行委員長格です。
その際に映画を作る。
ここのマスターが映画制作の実行委員長だそうです。
私はその場で、お祭り(まだ名前も決まっていない)の
関西支部の班長を拝命いたしました。
そんなノリです。
関西から来た珍しいいちげん客の私に、みな気を使ってくれました。

 「人間って、複雑。」
私の左隣に座った女性がかなり酔って述懐をはじめます。
 「私は今、33才なんだけど、10年ほど前、
  神奈川県の藤沢にいたころ、 好きな人ができた。
  私は小さいころからヤマトンチュ(沖縄以外の日本人)が嫌い。
  そんなふうに教えられて育ってきた。けれど、好きな人ができた。
  優しかった。教えられてたことと違った。」
 「藤沢の人は田舎者だから東京の人にはバカにされる。
  だから、そういう気持ちは少しはわかるけれども、
  ヤマトンチュだから、という言い方はするな。
  その人はそう言って私を叱った。」
 「もう十年も前の話だけれど。
  もっと若い女の子たちは、もっとストレートにヤマトンチュを嫌っている。
  でも ・・・人間って複雑。」
彼女も私も酔ってたけれど、確かにこんなふうに言ってました。
沖縄の人たちと我々との間に横たわる溝を、
こんな形ではじめて実感しました。

9.  1月4日・「うどい」への道

朝からバスを乗り継いで琉球ガラス村へ。さらにバスで玉泉洞へ。
南部戦跡は6年前に見たので、今回はパス。
・・・思ったのだけれど、一般の観光旅行者で路線バスに乗る人は少ない。
私くらいのものであるらしい。
第一、観光用には路線バスはかなり不便である。
みんなは、ホテル発の観光ツァーバスに乗ったり、
タクシーで回ったり、あるいはレンタカーを借りたりするらしい。
路線バスで、観光地で降りる人もいるのだけれど、
彼らは、どうやら観光施設で働く従業員であるらしく、
さっさと出口から入っていく。
路線バスはつまり施設の送迎バスのような機能になってるわけだ。
送迎バスに乗せて貰ったお客さんのような、微妙な居心地を
私はずっと感じてました。

玉泉洞からはバスが不便なのでタクシーに乗ります。
前から感じていた疑問を運転手さんにぶつけてみます。
 「玉泉洞が発見されたのは、わりと最近、
  戦後になってからだというけれど。
  本当は地元の人は以前からみんな知ってたんじゃないの?
  6年前に乗ったタクシーの運転手さんは、そんなこと言ってたけど」
そんなことはないらしい。
この運転手さんは、このすぐ近くで生まれ育ったのだそうだけど、
このあたり、夜になると幽霊が出ると言って、
みんな恐がって早く帰ったのだそうだ。
もしも以前から洞穴が発見されていたら、日本軍の軍事施設になって、
米軍の攻撃を受けてひどいことになってますよ。とのこと。
愛媛大学の大学生がこの洞穴を見つけ、
今はお金持ちになっているのだそうです。
いいな。
学校にも行かずに沖縄ブラブラしてて、それでお金持ちかあ。

うどい」に着きました。
「うどい」というのは「踊り」の沖縄方言表記です。
常設の琉球舞踊館で、ワリと最近にできたものです。
ここの社長さんの奥さんが常務さんで、演目の紹介に舞台に上がります。
上品で格調高い声調で、踊りの見どころをわかりやすく説明します。
社長さんは沖縄生まれだけれど、この人は静岡生まれ。
ロビーの壁に貼ってある新聞・雑誌のコピーによると・・・
二人でインドネシアのバリ島へ旅行した時に、
バリ島の民族舞踊・演芸が今も受け継がれ、
高く認知されてるのを目の当たりにして、それに刺激を受け、
琉球にも本来の立派な舞踊の伝統文化のあることを思い返して、
自分たちで島では初の常設琉球舞踊館「うどい」を設立する決心を
したとか。

夫婦ともに50才すぎてからの転身です。特に奥さんは、
もともと琉球舞踊とは縁もゆかりもない人。
決心してから猛勉強したそうです。
踊り手さんはそれぞれ一流。出し物に絶対妥協はしない。
けれども興行的にはまだまだ。
一日4、5回の公演で、年間一万人の来館者数。
大した数じゃない。
せめて7万人くらいには持っていきたい、と語っておられます。
200人くらい入れそうな施設に、私の時はお客が5人だけ。
しんどいだろうな。

出し物は全部で6つ。40分くらい。華美なもの。優雅なもの。
動きがあって、闊達なもの。・・・
私のほうこそ、舞踊なんてテンでわからないけれども、
それなりに洗練された動きだな、とは感じますね。
民族の歴史とともに、ここには踊りがあったんだなあ・・・と実感しました。

雑誌にはベンチャー企業として紹介されています。
沖縄以外の人の血が、沖縄文化を活性するという構図が
ちょっと見物です。
帰りがけ、何も頼まないのに、係員さんが那覇までの
帰りのバスの時刻表を調べてくれました。
こういう一生懸命さが嬉しいですね。がんばれ、うどい

エピローグ  1月4日・国際通りでお土産さがし

お土産物を買うなんて、あまり興味はなかったのだけれど、
「南国の香りをいっぱい袋につめて飛行機に乗る」なんてフレーズを
読んで、それもいいかな、という気になって、
すこしまじめにお土産捜しに時間を費やしました。

木彫人形をたくさん置いてるお店で、カエルの形の置物を眺めていると、
お店の女の子がそばに来て一生懸命説明を始める。
18才くらいかな?名札の文字は横文字。
 「日本に来て、だいぶ長いの?」
  「まだ来たばかり」
 「へえ。日本語、上手だね。」
  「ずっと日本語学校行ってたし。お母さんは日本人だから」
 「どこから来たの?」
  「ボリビア」
 「ボリビア?遠いんだ。ずっとこれからも、日本にいるの?」
  「まだ、来たばっかりだから、わからない」
 「ボリビアで作られたものも、このお店で売ってるんだね」
  「うーん。インドネシアのものが多いけど・・・
   あ。あれはボリビアで作ってる」
ケーナを見せてくれました。
ケーナは買わずに、やっぱりカエルにしました。

ほろ酔い気分で、備え付けの木の棒でカエルの背中をなでてやれば、
ココココ・・・とカエルの声で鳴きます。
南国の木の香の音がします。

主要参考文献
 沖縄いろいろ事典   ナイチャーズ編 新潮社
 おきなわ歴史物語   高良倉吉  著  ひるぎ社(おきなわ文庫)
 椎の川        大城貞俊  著

back next







[HOME] [お買い得情報] [お店MAP]
[商品一覧] [店長の紹介] [店長の日記]



postMAILはこちらです