日本犬の総明期
明治維新の開国と共に洋犬が多く日本に入ってきました。
日本犬の飼育方法は外飼育でしたので、逃げ出した洋犬や、捨てられた洋犬により雑種化がだんだんと進みました。
都市部の犬の多くが雑種化したといわれます。
このままでは日本固有の純血種がいなくなるという危機感から各地で保存会が発足しました。
そこでやっと雑種化に歯止めがかかるわけですが、都市部の純血だろうと思われる犬でも血統書もなかった当時は先祖をたどることもできませんでした。
そこで山出し(山間部の洋犬の入っていない土地の犬を出してくる)を行い、血統の管理もおこない、純血種を増やしていこうという取り組みも行われ、数の回復を優先してきました。
同時に展覧会で諸先輩方が優秀と認めた山陰柴を信州に持ち込み交配し、それを元に各地方の地柴を掛け合わせ数の回復を図ることになります。
現在の柴の祖先となっているのは信州柴と山陰柴の掛け合わせの子が多いのです。(詳しくは諸先輩方の書籍等をご覧ください。)
その反面、優秀と認められなかった地方の柴では絶滅した種もいます。
優秀な柴犬の祖と言われる「中号」の先祖は石州柴であるが、石州柴は絶滅している。
田名部博士は遺伝子レベルで精査すればそれぞれの地で独自に進化していた当時の地柴たちはそれぞれ別種であろうと結論つけられています。
本来は別種なのに各地方の独立した地柴を一括りに柴犬とし現代柴を作り出したというのもまた事実である。
そういった混乱期は日本犬における聡明期であるといえる。
保存会
古くは日本犬保存会の中でも、小柄な系統を持つ成犬を日本全国に捜し歩き保存育成してきました。
基準に満たない成犬たちは犬質が優れていても「小さい」というだけで評価をもらえず、そのような系統は作出者の多くから排除されてきました。
保存会が決めた体高にそぐわないという理由だけです。
山出しの純血種でも大きな子や小さな子はたくさんいました。
日本犬は昔から多様性もありましたが保存会の決めた標準体高がネックになり、保存の趣旨とは裏腹に淘汰される運命にありました。
そういった多様性のあった日本犬にはたくさんの保存会があります。
四国犬保存会
紀州犬保存会
琉球犬保存会
赤色が柴に関する代表的な保存会です。
昔はこの中でもそれぞれ地方名で呼ばれる柴がいました。
柴犬の保存の過程でいろいろな保存会が生まれては消えしてきた歴史もまた事実です。
守るために沙汰される犬たち
種の保存のための多様性の淘汰。
こういう矛盾を難しく考えず、会の決めた規則にちょっとそぐわなくてもそういう犬を守るという趣旨のもと京都の愛犬家が昭和25年ごろから小さな柴を集め、保存をしていました。
私の豆柴(小柴)との出会いはそこでした。
現在はその方もお亡くなりになり、一度犬を手放されているようなので、純粋な豆柴(小柴)の血統を数多く持つのは当犬舎となりました。
京都の系統だけではすぐに血が詰まる(血が濃くなる)ので、
先人が辿った道を巡るように、日本全国の山間部に足を運び、小柄な純血の柴犬たちを集めました。
日本犬保存会の展覧会にも何度も何度も足を運んで、「小さな子を出す系統」を探し求めました。
時には「会員なら会の趣旨から外れたことをするな!」と叱責されたこともあります。
小柄な系統出す柴犬いるよ?
と紹介いただいた人のもとへ訪ねた時、「小柄な柴を集め、小柄な柴の系統を守ってゆきたい。」と説明すると、
「犬質が良くても小柄にしかならんことを馬鹿にしに来たのか?」「これで苦労してるのになが小柄の柴を守るじゃ!」
と追い返されたこともあります。
展覧会で評価をもらうには体高も重要な基準です。いくら犬質を磨き上げても体高が少し足りないというだけで水の泡です。
その方のもとへは何度も何度も足を運びやっとの思いで子犬と小さな雌犬を譲っていただきました。
昔のおばあさんのお話し
信州の山の中で「小さな柴を持っている方知りませんか?」とおばあさんに尋ねた時の話です。
「小柴かぁ。昔はいっぱいいたけど最近大きいのしか見ないな。男どもは大きい犬が好きだから、皆大きくしてしまう。
大きくなると食い物もたくさん食べるし小さな獲物も取らずに食ってしまう。」
昔はブリーダーという職業はなく、鉄砲で大物を狙うマタギが大きな猟犬を生産し、
農家のような家は小さな小柴を小物狩に利用していたんだよと教わりました。
昭和初期になると男の人が権力じゃ名誉じゃと良い犬を生ませることに必死になって似たような犬ばかりになったしまったということ、
その昔は農家の犬は出産も産婆さんのような女の仕事であったため、女性のほうが知識があるということ、
そのおばあさんの子供のころから「小柴」といって親しまれていた小型の柴が昔からいたこと、
小さな柴でも猛獣(熊や猪)よけには十分効果があったこと、
狩用の小柴は兼業農家さんの間で物々交換のように流通させていたことなど、大変たくさんのお話を聞きました。
1980年ごろの話なので明治大正の頃には固定化された小柴が沢山いたのかもしれません。
現実に古く狩猟会の雑誌に穴倉猟、尺柴(30.3センチ)の販売広告などもあります。
地方により、小柴であったり、尺柴であったり、小さな柴は親しまれた名前で呼ばれていました。
*画像の出典・狩猟界 尺柴は穴倉猟犬として売買されていた。
消えゆく小柴の血
しかし時代と共に小柴の姿はだんだんと消えてゆきました。
その理由は流通網が発達し、山間部でも肉などが手に入るようになると「狩猟」をする必要性が薄れたためと、
小柴の大型化(標準化)が進んだためです。
小さな柴は日本犬保存会の基準を満たすために大型になり、
大きいな柴は日本犬保存会の基準を満たすために小型になった。
多様性が失われたわけです。
プードルには同じ犬種でありながら4種の線引きがあります。
45cm以上のスタンダードプードル
35から45cmまでのミディアムプードル
28から35cmまでのミニチュアプードル
24から28cmのトイプードル
このように日本犬標準が柴の中でもサイズ別れがあれば小柴が今でも沢山居たはずです。
摂州宝山荘の豆柴は、60年以上の歴史(確かな血統)を持っています。
宝山荘の祖となる犬たちの多くは日本犬保存会の犬籍です。
ただ小さいというだけで、「繁殖に使うな!」などとまで言われましたが、
犬の多様性を考え「日本犬豆柴保存育成普及会」として立ち上がりました。