ギター製作者 日比伸也

■CRESCENTMOON誕生////////////

夜空を見上げると天の川が南から北へ帯のように流れている姿は、幼少時代の僕にとって
当たり前の光景でした。 夜になる度、空には満天の星が煌くのです。蛍の大群を街の中で見たこともあります。
それはとても美しい幻想の世界です。

その光景こそが1950年前後、幼少の頃の夜空に対する慕情なのです。
僕は名古屋の繁華街、栄周辺で生まれたのですがそんな繁華街でさえも当時は夜になると
綺麗な空を見ることが出来ました。

もちろん空気も今よりずっときれいでしたし、道路はアスファルトはなく雨が降るとひどいぬかるみに
なったものです。




U字溝にはどぶ板と呼ばれるヒノキの板が置いてあるだけでしたが、この当時、名古屋市で
もっとも栄えていた場所の風景がこのようなものでした。


左下の写真向かって右が母です。僕の母はとても綺麗な人でした。痩せ型で長い髪、細い手足、
いうことありません。自慢の母です。その母と手を繋いで近所の草場や公園でお弁当を持って
いって食べるのが最高の快感でした。



僕は名古屋市中区宮出町「今の栄4丁目」で誕生しました。宮出町は名古屋で一番の繁華街、
栄町の隣で当時はまだ繁華街と住宅街が入り混じった町でした。
この混沌とした町の中に中京女子大学という学校があり、美空ひばりさんやアントニオ古賀さん
といった当時、最高に人気のあった芸能人たちがその体育館で演芸をやってくれたのです。
のどかですね。

現在この周辺は女子大小路と呼ばれ、この女子大が名前の由来となっています。
母は僕と弟が生まれるとすぐに父親と離婚しました。何か映画みたいですね。
だから男手がないからとても貧乏でした。昼食にご飯はあったのですがおかずも
何もない日もありました。

近所の原っぱでつくしを取ってきて醤油で煮て食べたのを覚えています。
よもぎやねぎ、やわらかい葉っぱなどを取ってきてよくおかずにしていたものです。
道路はどこも舗装などないので、雨が降った後は大気中のほこりなどは地中にしみこみ、
原っぱでは食べることの出来る自然の食材がたくさん採れた時代だったのです。

僕が通っていた小学校は東桜小学校です。家から歩いて30分のところで良い学校でした。
今思えば小学校、中学校時代は自然や空気が綺麗でしたし、近所付き合いなども
今よりずっと深い時代だったように感じます。
学校帰りには原っぱで四つ葉のクローバーを良く探しました。
ふきのとうが咲いた小さな池もありました。夏にはちょっとした水溜りにさえ、
みずすましなんかが泳いでいましたし、秋には赤とんぼやぎんやんまがそこいらを
飛び回っていたものです。名古屋の繁華街でも当時はそんなのどかな世界だったのです。


高校生になりました。1963年です。
アメリカでは7000ccのサンダーバードが飛ぶように売れ、日本人の目からして
宇宙人のようにも感じたものです。
高校生のアルバイト料が日本で1時間/50円の時にアメリカでは 600円くらいだったと記憶しています。
エルビスプレスリーのバックで弾いていた金色のピックギターが宝物のように見えたものです。
高校1年生の初期まで坊主刈りの頭でしたが、後半は格好よく髪を伸ばして
櫛を胸にさして通学していました。

そして高校2年生のとき、ギターを始めました。
当時はまだスチールギターは普及していなくてギターといえばクラシックギターと
ピックギター(ジャズギター) くらいなものでソリッドのエレキギターもまだ聴いたことのない時代でした。

きっかけは近所の友人のお兄さんがクラシックギターをくれたことからでした。
中古のぼろぼろのもので当時\500で買ってきたといってました。
近所にギターを作っていた町工場があってメーカーに納品できないものを店先で\500くらいで
売っていたのです。お兄さんはそのギターを2年ほど使っていたとのことでした。

その人はただで僕にギターをくれたのです。すごいですよね。
まだまだ日本が貧乏な時代だったのですよ。
このギターの音が僕にとってはとても良い音だったのです。もちろんオール合板製の例の奴です。
このベニア(合板)の音が当時の時代とマッチして最高だったのです。

単板のギターではいけません。この時代はベニアのギターがギターだったのです。
最高です。本当です。ネックはすこし順反りで弦高は相当高めでしたが、
そんなこと関係ありませんでした。夢中で1年弱弾きまくりました。

当然見様見真似の我流です。ナルシソ・イエペスの“禁じられた遊び”を一生懸命に練習しました。
ある日、高校のある部室の前を通ると見知らぬ生徒が禁じられた遊びを
目茶苦茶上手に弾いているのです。

びっくりしました。思わず声をかけ最後まで聞かせてもらったのです。感激よりも嫉妬しました。
同じ年で僕よりも上手に弾く奴がこんな近くにいるなんて衝撃でした。許せません。
即ゴーバックホームです。躍起になって練習しました。

禁じられた遊びの挿入曲はおよそ10曲くらいあったと思うのですが普通は3曲くらいを弾きます。
この3曲を弾ける坊主は当時、そうはいなかったはずです。
特に愛のロマンスという曲は後半転調して左指も大きく広げないと届かない箇所があるのです。
結構難しいんですよ。本当にのどかな時代ですよね。

まあ、こんなことを毎日やって過ごしていたのですが、
この時代にとんでもないことが音楽の世界に発生しそれが全世界で爆発しました。

モダーンジャズ、ビートルズ、ベンチャーズ,フォークソングの出現です。
この1955年くらいから1969年までがまさに僕の青春でした。

ソリッドエレキギターの音を真空管ラジオで聞いただけでびっくり仰天。
世の中にこんな大きな音でやる音楽があったなんてとても信じられませんでした。
僕は相変わらず\500のクラシックギターでプリーズ、プリーズミーを練習しました。


ベンチャーズのパイプライン、10番街の殺人、ドントウオークラン、
ついでに伊東ゆかりの小指の思い出や黛じゅんの曲も、
さらにタイガーズの僕のマリーもやってしまったのです。

日本中がいや世界中がエレキ一色に塗りかわったのです。
線香花火ではありません。原始爆弾の爆発です。
とうとうエレキギターを買ってしまいました。ビクターの白いストラトコピーです。
“VICTOR"のギターですよ。

当時、この会社もエレキの渦の中に巻き込まれどこかの外注に作らせていたのでしょう。
鳴りませんでした。アンプの所為ではありません。作り悪し、ピックアップ最低、ネックど太く、
弦もミディアムゲージが張ってあったのです。当時はそんなこと知りませんでした。
手が痛くなりました。


弾くのがだんだん嫌になっていた頃、大学に無事入学したのです。
ここで知り合った連中とバンドを組んでしまいました。これがまたいけません。

僕以外はどうもお金持ちのボンボンとギャルのようで、
すごいギター、ドラム、ベースを持っているではありませんか。
名前なんかはすっかり忘れてしまったのですが僕の白いギターとは世界が違っていたのです。

僕のギターは全く鳴りません。リードをまかされたのですが聞こえないのです。
彼らの高級アンプに突っ込んでも鳴らないのです。
3日間ほど練習した後、誘ってくれなくなりました。やっぱりと思い、
そのギターはすぐに楽器屋に売りました。売って気分も晴れました。

これからしばらくクラシックギターにかえり、難しい曲を独学で練習しました。
またこの頃は毎日、毎日、夜遅くまでアルバイトをしていました。お金がなかったのです。
貧乏な家庭の子ですから授業料は自分で払い込まないといけなかったのです。

当時、大学のカレーライスが¥80でハヤシライスが¥60です。
ポケットに手をいれたら¥56円しかない日は、昼食抜きで授業を受けました。
こんな大学生活でしたが結構面白かったです。

コカコーラが日本に初めて入ってきて、
宣伝のため構内で飲み放題にやってた時のことも思い出のひとつです。
初めて飲んだコーラの味にびっくり。

こんなものアメリカ人はどんなときに飲むんだろうと考えながら一気に5本も飲みました。
気持ち悪くなってベンチで横になってしまったのも覚えています。

ある日、友人がカローラに乗ってきたこともありました。親に買ってもらったのです。
コカコーラのときと同じくらいびっくりしました。どうして僕はこんなにもお金がないのか、
わけが分からなくなってしまいましたが、
自分を見失うことなく学業と適度な遊びを経て無事卒業しました。

1969年です。この時期には彼女がいました。小柄ないい子です。後でまたでてきます。

この卒業の年に大阪で万国博覧会が日本で始めて開催されました。
卒業にはまだ時間が残っている5月にそこでアルバイトをすることになったのです。

名古屋の国際ホテルで当時アルバイトをしていたのですが友達になっていた
4人の女の子達と僕の5人で名古屋から大阪へ泊まりこみでいったのです。
宿泊先はアルバイト先の会社が部屋を用意してくれ、見知らぬ土地での共同生活が始まったのでした。



仕事はアメリカのサンダースというレストランでのウエイターです。太陽の塔の地下にありました。
時間給がすごかったです。当時一般の時給が¥60円/1時間、が¥350/1時間です。
なんと6倍近いお給金です。いきますよね。やっぱり。

親には内緒でとにかく女の子たちに付いていきました。
着いてから親に連絡して布団を一式送ってもらったのです。6ヶ月の契約でした。
外人が経営していたので多少の英語も覚えました。

アメリカ人はKENTというタバコを“キャーン”と発音します。 “ギブ ミー キャーン”です。
何を言っているのかさっぱりわかりません。
“プット コーヒー オン ザ テーブル”と言われたとき僕はコーヒーをテーブルにくっつけろと訳しました。
訳した本人がさっぱり意味がわかりません。

コーヒーをテーブルにどうやってくっつけるのかこっちが聞きたかったです。
しかしその聞き方が分からないのでぽーとしていたら“オーガッデム!”と言われました。
ハンバーガーというものも始めてこの店で見て、触って、食べました。
フランクフルトソーセージも初めて食べました。おいしかったです。
こんなものばかり食べていたらアメリカ人は大きくなるはずだと実感しました。

そんな雰囲気でアルバイトは進んでいったのです。
かわいい子には旅をさせろと昔の人は良く言ったものです。
これは本当に良い体験だったと真剣に思いました。自立心が見事に育ったのです。
青春がどんどん進行していったのです。

楽しいこと、いやなこと、悲しいこと、すべてこの6ヶ月で経験しました。
僕は良い子になって名古屋へ帰ってきたのです。
垢抜けもしてちょっといい男の子になっていたようです?しかし母親は相当心配していたようです。
この頃はもうすっかりギターのことは忘れていました。
どこへしまったのかも記憶から消えていたのです。




ところでこの頃近所に小池レコードという小さなレコードショップがあって
60歳くらいのおじいちゃんがひとりで元気よくお店をきりもりしていました。
場所は名古屋市の中区新栄町でした。

おじいちゃん曰く、「わしのところのレコードはよ、
アメリカのレコード会社が最初にプレスした10枚までのうちの3枚を送ってくれてるのだぞ。

どういうことかというと、この超最初のプレスはレコード溝が新鮮でとがっているので音が
めちゃいいのだぞ。
坊主、わかるか? 一枚\3,500だぞ。 1枚買っていくか? その前によちょっと聞かせてやるわ。
お前にはまだわからんだろうが、まあ、聞いてみやー!」

そう言いながらこのおじいちゃんはいつも同じ台詞でレコード針を落としてくれたのを覚えています。
初めて聞いたその音は、今も僕の脳裏にはっきりと残っています。

おそらく1940年代〜1950年代のシステムと今では思うのですが、今日の相当高額な高級機でさえ
この音に勝るものはないと思います。
いや、断言できます。それほどの音がでてくるのです。恐ろしいことですよね。

このシステムで当時の1960年代のレコードを聞くと腰がぬけるほどの臨場感、
存在感、耳障りのよさ、空間に広がる綺麗な粒立ちの音、
まさに目の前で綺麗なアメリカ娘が胸元を広げて歌っているのです。
唇のルージュの色もその唇のビブラートのかかった動きさえもわかります。

そして真っ赤に熟したトマトのように赤く輝く真空管アンプと、
レコード溝を地中海の海のように穏やかにトレースするロングなアームがどっしりと
鎮座ましましているのです。


この件について知っている方がみえたら誰か教えてください。
このおじいちゃんも12年ほど前になくなられてお店は閉じられたままになっています。
さみしいです。本当にさみしいです。

その時代に\3,500のレコード代金は絶対に僕には払うことができなかったほどの高額です。
今日、この当時の音を聞くことができるお店は日本でも数少ないでしょうね。

むしろ個人的に趣味が高じてこの頃のビンテージ世界にはまっている方が
存在するという言い方の方が現実かもしれませんね。




このことも僕の青春のかけらなのです。1枚のレコードも買うことのできなかったことは悲しくて、
情けなくてそれでも楽しかった青春の思い出の一つなのです。




そして、僕はといえばあるコンピューター販売会社への就職が決まった頃でした。




それから2ヵ月後、僕は12月からあるコンピューターの販売会社へ就職がきまり、まだ学生ですが
給料をもらって出社していました。
1年間でしたが社会人として就職をし死ぬ思いで働きました。、この頃新しい女友達が5、6人いて、
飲みにいったり、借りた人様の車でドライブにいきました。もてたのか、もてなかったのか良く分からない
僕の青春時代でした。
営業マンですから、とにかくコンピューターを売らなくてはなりません。入社月から売りました。
結局、1年間でトップの売り上げをだして、そこの上司たちと独立をしたのです。建築に関する畑違いの
仕事です。自分たちの会社ですから更に必死でした。ここでは現場での大工仕事を身につけました。


この時期のことが僕の後半の人生に大きな影響を与えたのです。

それから2年後、どうしても日々のお金が足りないので僕はその会社を去り、普通の建築会社に入って
いきました。
名古屋の新栄にあったシンコーホームの増改築担当の営業マンです。ここでも必死に働きました。
9時に出社して夜の1時くらいまで営業したので好成績でした。
他の人たちはとにかく働きませんでしたので差がつきますよね。あまりの好成績に嫉妬の渦の中の
1年でした。




このとき、年は29歳だと記憶しています。もう結婚していた頃です。相手は例の小柄ないい子です。
子供は1歳の男の子がいました。
仕事はお客から増改築の問い合わせがくると、まず訪問してご希望を聞きます。普通は社内に
設計士がいて彼が見積もりと図面を書くのですが、僕は数回見積もりの仕方と図面の書き方を
会社内の設計士から教わり後は自分で見積りをして、図面を作り、お客様に営業しました。
建築に関する本も沢山読みあさり知識を詰め込みました。自分で作った内容ですから何でも即座に
その場で答えることができ、図面もその場で書き換えることもできます。これがうけました。
すごい新入社員が来たと噂になったほどでしたが、あまりにも他の営業の人たちとやり方が違うので
総スカンの状態になり孤立した営業マンになってしまったのです。陰のある営業マンです。
人間関係が壊れていきました。


原因は当然、自分自身にあったのです。


1年が経ち、社長が目をかけてくれたおかげで給料も相当あがった頃のある日、
社長を含む20名くらいが出席する営業会議に初参加し、経理と営業との書類のやり取りの関係が
もっと効率良くならないかという提案がでました。誰も何も答えません。専務、常務その下、
すべてが社長の御用聞きマンで揃えられているのは、1年間勤めていた僕にも分かっていました。
映画ではこのような関係を見てきたのですが現実に自分がその場にいると変な感じです。
僕は以前にも仕入れの課長に「日比くん、この会社で長くいようと思ったらあまり走ってはいけないよ。
皆と歩調を合わせて適度なスピードで適度な売り上げでいいんだよ。そうしないと会社を
辞めなくてはならない時が早くきてしまうからね。」と忠告されていました。とっても良い忠告です。
僕はその時、最高に感謝の気持ちを顔に作ってお礼を申し上げました。
腹の中は“この変態野郎、ねずみ男”と思いながら。



社長の提案に対していつまでもシーンとしています。社長も社長です。長い経験から自分の
子飼いから意見など出てくるはずはないことくらい知っているでしょうに。その時、僕はこれではいかん、
誰か何かを言わないと会議にならなのでは?と思い、ついに言ってはならないことを口走って
しまったのです。


「社長、僕は以前コンピューターの営業をしていましたのでその効果のほどのことは
分かっているのですが、コンピューター導入について検討されてはいかがでしょうか?」と。


その瞬間シーンとしていた会議室がさらに宇宙はるかの真空状態になってしまったのが
よくわかったのです。

その時、「バカモーン!何を偉そうなことを新入生のお前が言い出すのだ!先輩らが考えているときに
お前からデシャバッテくるとは何様のつもりだ。そこでだまっているか、帰れ!」と、えらいことになって
しまいました。

普通、映画ならここからそれを聞いた社長が「面白そうな意見のようだからもっと聞かせてもらえないかね、」
くらいの返事が返ってきますよね。普通は。でもこの会社は違っていました。
いや僕が違っていて会社が正しいのかもしれません。これが日本の会社の形かもしれません。
このやり方で日本は世界一になったのですね。たぶん。

そうして、ほぼ29〜30歳のこの時期に僕は本当の意味で一人で会社をおこしたのです。
宣伝を考え、注文をとって、職人らに作らせ、間に合わないときは僕も一緒になって作業しました。
いつの間にか営業マン大工になっていました。30代は一番働ける時期だとおじいさんから聞かされて
いたのですが本当した。よく働きました。お金も少しは貯まってきたのです。


しかし始めた当時はひどいものでした。かわいい息子のミルク代がない日が続いたのです。
今思うと、どうやってあの時期を乗り越えたのか思い出せないのです。


「お父さん、裕己(ゆうき:息子の名前)のミルクがなくなったけど、、、どうしよう、、、お金もなくなって、、、」

ガーン! ショックでした。 ここまで貧乏とは、、、!

そのときの二人の光景を今でも思い出します。部屋で立ったまま呆然としていました。
どうやってあのときミルク代を作って息子に飲ませたのか? どうしても思い出すことができません。


(1980年頃のヤマハ名古屋店2階にて格好をつける本人)


そんな貧乏と縁が切れた頃でした。シンコーホームが倒産しました。



この頃、また思い出したようにクラシックギターで分けのわからない曲を弾いて悦にいってました。
そんなある日、無理して買ったデンオンの中級ステレオシステムから、アリスの終止符という曲が
流れてきました。息子も4〜5歳になっていたでしょうか、一緒に聞いていたことを覚えています。
いい曲ですね。伴奏のギターがいいです。鉄の音がします。クラシックのナイロン弦ではでない音なのです。
もちろんアメリカのいろんな曲でこのようなスチール弦を張ったギターが使われていることは知ってましたが、
こんなにも日本的な音は僕にとってはこの曲が初めてでした。


「うーん、これはいかんな、どこのメーカーのギターか知らんが、ヤマハ名古屋店で見てくるか」


と思うと突風のごとくその店のギターコーナーに向かいました。1980年頃だったと思います。当時は、
アコギ全盛時代で2階のフロアーいっぱいにアコースティックギターが並んでいました。マーチンコーナー
もありました。D-18、D-19、D-28、D-35、HD-28、D-45、NEW YORKERどれも眩しくて見ていられません。
ギブソンコーナーもありました。ばちがあたりそうで傍で見ているだけです。ギルドもありました。
ギルドは12弦が有名です。黒いオベージョンの100万円の値札がちらっと見えました。誰が買うのでしょうか。
この時代に100万円ですよ。


ヤマハのLシリーズコーナーもあってL-31Aというモデルのトップ板の模様が気に入ったのでちょっと
触らせてもらいました。ついボローンとやってしまったところ「おお、結講いけるじゃないか。
日本的だけどアリスの終止符のような音がするじゃないかと勝手に思い込みいました。値段を見ると、\200,000。

「この“終止符”の音で\200,000なら安い。」と思い、店員のお姉さんを呼びました。

僕は値引きを交渉したのですが、「値引きはできないのです。すいません。」と断られてしまいました。
この時代のギターはほとんど定価で売れた時代だったのです。
でも僕も結構しつこくて、この時は特にがんばりました。
やせ型の綺麗な店員さんでまさに僕の好みだったので、余計に引き下がれなかったです。

「このギター、とても気に入ったのですが5万円まけてください。ちょうどそれ位のお金を今もっているんです。
だめですか?」

と、押したら驚きの答えが返ってきたのです。

「従業員割引というのがあるのですが、私が買ったことにして買いましょうか?
20%引きですから16万円ですよ。」

普通、初めての客にこんなこと言いますか。この時、僕は勝手にこの女の子は僕に好意を
抱いたなと思ったのです。僕は結婚していましたが、完全に好意を持ち即16万円を払いました。
ギターを受け取って

「また来ます」

と言ってヤマハ名古屋店を去りました。

家まで一目散で帰りチューニングをしてすぐに弾きました。いい音でした。終止符を練習しました。
しかし、そのギターはたった1週間でネックがひどく順反りになりトラスロッドを回しても直らなくなりました。
調整にヤマハへ持っていくと、例の彼女がいて、事情を話してギターを置いて帰りました。
2週間ほどしてギターが直ったと連絡があったので、その娘に会いたいのもあって飛んで行きました。

持ち帰り3週間ほど終止符を練習し た頃、またネックが反りました。ヤマハって良いギターですね。
彼女に会えるようにしてくれるのです。こんなギターは滅多にありません。
早速、彼女に会いにいきました。




この娘は本当にいい子で

「別の新品のギターに交換するように上司と今相談してきますからちょっと待っていてください。
ごめんなさいね。」と言ってくれました。 

しばらくして、「了解がとれましたので、こちらのL-31Aをお使いください。」
といってギターを交換してくれたのです。いい時代です。いい店員さんです。
ヤマハ名古屋店はいい会社ですね。僕は彼女に言いました。

「一度、前の東宝ビルの喫茶店“ジロー”でお茶しませんか。今回のお礼を兼ねてお話もしたいのですが。」

丁寧に誘いました。

「私でもいいんですか。」

という答えにびっくり。いいに決まってます。

一緒に一時間ほどお茶を飲みました。最高です。
こんな幸せな気分はひさしぶりのことでしたが、タイミングが悪かったのか次に会う約束は
できませんでした。



それからしばらくして、次にギターが欲しくなってヤマハへいきました。
それにあの子にも会いたかったのです。思い切ってマーチンのD-19を買いました。
D-18のトップ板が茶色に着色してあるタイプでD-18よりちょっとだけ高価なギターでした。
今回も彼女の従業員割引です。


それから更に時間が経ち次に買うギターを決めてヤマハへ行き、彼女に言いました。

「マーチンの O-16 NEWYORKERをください。」

もちろん即金で従業員割引です。この頃のマーチンはギターの保証書に期限を入れてないものを
発行していました。一種の永久保証でしょうね。自信があったのですね。凄いことです。


ついこの間まで子供のミルク代にも困っていたのですが一生懸命働いたおかげですね。ある程度、
高価なギターも買える様になっていたのですが、ふと我に返るとわずかな期間に結構なお金を使って
しまって心配になりました。


ところでこの時期は、ただギターを買いあさっていただけでなくて、演奏の方もかなり練習をして
ギターにのめり込んでいた頃でした。
TWOフィンガー、THREEフィンガーいずれでも演奏できるようになりました。ステファン・グロスマンの
“バミューダ・トライアングル”という18番の曲もできました。他にも“THE WAY SHE WALKS”というスローブルース
も好きです。また作曲者は違うのですが、バート・ヤンシュの演奏する“アンジー”も覚えました。
ジョン・レンボーンの“ラケットサンデー”も最高の曲です。

この時代は今のように楽譜集の販売なんて一般にないので、耳コピーするか楽譜を海外から
輸入しなくてはならなかったのです。僕は耳コピーが苦手だったので楽譜の輸入のほうをとりました。
ステファン・グロスマンが楽譜の販売もやっていたので、彼らのキッキングミールレコードという
レーベルのレコードには楽譜のついたパンフレットが入っていたのです。


今では懐かしい響きです。この頃、暗記した曲は今でも弾けるのですが、今練習する曲は全然暗記
できません。歳のせいですね。
これらの曲が相当弾けて人前でも何とか最後まで演奏可能になった丁度その頃から建築の仕事が
物凄く忙しくなってしまいました。




そうそう、あの時のショートカットのよく似合うヤマハの女店員さんは当時好きな人がいたらしくて、
じきに結婚してしまいました。ある日突然、結婚式の案内状が来て腰を抜かしました。

「なっ、なんだったんだ...!」

ここからギターに関しては10年間のブランクが発生するのです。







映画「2001年宇宙の旅」のごとく、地球から宇宙の彼方で目を覚ますように10年が過ぎました。
あまりにも多忙な10年間でした。42歳くらいだったと思います。すっかり本物の大工、建築屋に
なっていました。

10年前のギターはそのまま、まだ眠ったままです。まず、ヤマハL-31Aのケースを開けて、
一曲弾こうと思ったのですがなにも弾けません。すっかり忘れてしまっていましたが、
そんなことだろうと思っていたので驚きはしませんでした。少しずつ思い出しながら、
いろいろな曲を覚醒していきました。1年間また一生懸命ギターの練習をし、
人の前で弾けるようになってライブもやるようになりました。おじさんライブの始まりですね。


そして、どうしてそうなったのかよく分からないのですが、いつの間にかギターのリペアと製作を
研究していたのです。たぶん仕事が落ち着いた頃で、時間に余裕が出来るようになったからでしょうね。
従業員の辻岡という60歳のおっさんと共に研究しました。

建築の仕事と併行して行いました。知人のギターを何台もリペアしました。今でもそうだと思うのですが、
日本語で書かれた、ギターの作り方という本は一冊も出ていない手探りの状況の中でした。
それでもギターを壊しながらも、勘考してジグなども作り、ギターらしきものができる様になって
いったのです。

1年が過ぎました。その間にはクラシックギターの製作家やスチールギターの製作家とも仲良しに
なりました。ちなみに名古屋は、元々がギター製作の盛んな地区で多くの工場がありました。
戦後、合板技術を使って町工場がベニアギターを作り、アメリカへどんどん輸出していた地区なのです。
多くのクラシック製作家も輩出しています。




それからまた1年が過ぎ、2年目も過ぎて3年目くらいの時期のことです。

この時期にふっと思い出したことがあったのです。僕に初めて500円のギターをくれたあの先輩のことです。
彼は一時期、クラシックギターを作ってご飯を食べていたはずだったのです。

急にどうしているのか会いたくなりました。消息は大体、風の噂で知っていたので会いにいくと、
彼は伊勢型紙師として独立し着物に文様、家紋を入れる仕事をしていました。久しぶりに再会を果たし、
思い出話と共にギター談議が1日中続きました。先輩は5年間ほどクラシックギターを製作していた
とのことで、それらのギターはあくまで製作家としてではなく趣味の一環で作っていたと言っていましたが、
趣味の域を超えるほどのとても素晴らしいギターを製作していました。

先輩は自分でギターを作るようになる前に名古屋の二人の製作家にそれぞれギターを発注したそうで、
そのうちの1台が手元にあり弾かせてもらいました。

材質はバック・サイド板がインドローズ、トップ板は蝦夷松、年月も経ち、枯れて重量感のある良い音色
でした。

「このギターはトップ板が設計上、厚くしてあるので本当の意味で鳴るようになるのには
5年はかかるらしいよ。」

と当時その先輩が言っていました。
ギターに限らず楽器は長く弾き続けて(使い続けて)やらないといけないと思います(もちろん使い続けられる様なしっかりとした作りでないといけませんが)。
新品で購入して鳴らないといって、すぐ買い換えていてはいけません。楽器は育ててあげることで、
更に良い音色がしてくるものなのです。それは、たとえ安いベニアのギターでも一緒です。
今、お持ちのギターを大事に弾いてあげましょう。

大切に育てている花に毎日水をあげるように、ギターも大切に弾き続けてあげれば
当時の500円ギターでも 100万円のギターでも、あなたの心を休めてくれる存在になるのです。
それにはメーカーのブランド名などは関係ないはずです。話が違う方向へ行きそうですから
元へ戻しますね。


先輩は昔使っていた古いギター用材料が5台分残っているから、今度取りに来いよと言ってくれました。
20年くらい経っている材木とのことだったので、相当枯れているはずで僕は期待しました。
それらが入手できる日が待ち遠しかったのをよく覚えています。譲っていただいた材は、
トップ板がジャーマン・スプルース、バックとサイドはインドローズの最高級の材でした。
板に耳を近づけて、人差し指ではじいてやるとカーンという金属のような響きがしました。
よく乾燥して腰の強い良材は叩くと金属のように響くのです。これを使えば、最初から鳴るギターが
できるなと直感しました。材の段階からすでに鳴っているのです。きっと鳴ります。僕は直感を信じました。
信じることは大切なことのはずです。それがギターの音になって心休まる刺激感のない、
綿のような響きを放つ日を思い浮かべました。





クラシックギターの音はナイロン弦のため優しい音がしますが、スチール弦を使ういわゆるアコギは
鉄の金属音がします。この鉄のサウンドが人間の耳に、やさしく刺激感がなく聞こえないといけません。
ただ大きな音(やかましい音)ではいけません。一日中弾いても疲れないそんな音がいいですよね。



1930年台のウエスタンエレクトリック社のスピーカーから飛び出す日本刀で切ったように切れのある音
であり、なおかつ耳にはなぜか優しく聞こえる不思議な音や、幼少時代、毎晩見た夜空に輝く星達を
思い出しながら僕に蓄積されたいろんな素敵なことを思い浮かべ、夢中になってこの材から1台のギターを
作りました。



こうして出来上がったギターはいわゆるマーチンの000タイプの632スケールギターで、
塗装は刷毛塗りのセラック塗装です。



このギターがどんな音をだしたか、想像がつきますか?


ギターを作るときにこんな音にしてやろう、という発想では通用しないということをここ数年間の勉強で
経験ずみでした。

ただただ、一生懸命に作りあげていく気持ちが最後にそのギターの音になると僕は今でも信じています。

そしてその気持ちがいつまでも続く限り、それがその製作家のサウンドになるのです。

これが何となく分かるのに何年もかかってしまいました。

これからも音の不思議さとお付き合いする日々は続いていくのでしょうね。




ところでこのギターがどんな音を出したか、お話します。


* ズーンと深く静かに沈みこむように響き、なおかつ心地よく弾んでくれる5、6弦の低音。
* 付帯音のない澄んだ純粋な鉄の高音。
* 和音を爪弾いてもにごりや混濁がなく、各音が喧嘩することのない落ち着いた中域音。
* 演奏者がコントロールしながら弾くことのできる音の出方 。
* 初めから枯れた音。



製作者自身による評価ほど当てにならないものは無いかもしれません。若い男女の、
のろけ話のようなものかもしれません。でも読んでやってください。それまで何台も試作し、
足で壊したものもあったのです。

このギターは違っていました。古い良材とニスの組み合わせから出るギターの音色は、
例えるならばウエスタンエレクトリック社の 555ドライバー(スピーカー機種名)の中で唇を濡らしながら歌うマリリン・モンロー
のあの乾いた歌声を思わせるのです。手作業で一生懸命作った甲斐がありました。うれしかったです。
自分が思い描いていた音に近いものが一生懸命の結果ついてきてくれたのですから。



この瞬間こそがクレセントムーンの誕生だったのかもしれません。




現在、私が製作しているクレセントムーンはトップ板、バック板とも位置によって厚みを変えて均一な響きに
ならないように設計してあります。
その理由は均一な平面からは平面の音しかでないと思うからです。ある程度、不均一な平面からは
カオスの音がするはずです。
カオスとは物理学や心理学などによくでてくる表現で、 “混沌としている”という意味です。
人間が生活しているこの3次元の世界は無秩序にカオスが進行しているのです。
時間でさえもそうなのです。人間はカオス(混沌)の中で生活しているゆえに、極端に平面であったり、
尖っていたり、まっすぐだったり、左右の対象がきれいにとれていたりすると妙に嫌な感じを受けやすい
そうです。

むしろ多少の乱れや凹凸や曲面なんかがある方が安心しますよね。私はその信念ゆえにあえて
平面性をくずした材を使用し、乱れを含んだサウンドを求めています。このことは力木などの設計や
他の箇所にも適応させてあります。その結果、クレセントムーンのボディは多少の歪みを含んでいるのです。




また塗装についてですが、セラックニスは刷毛塗り、たんぽ塗り、吹きつけなどいくつかの塗装方法が
可能ですが、私は刷毛塗りを主にして一部吹きつける方法をとっています。ニスの下地には、
化学下地剤を使用するときもあります。この化学下地剤の方が、どう聞いても音が良い場合があるのです。
何もかも自然のものを使ってという意見も確かにありますが、時と場合によってはカオスがより良いものを
生み出すこともあるものなのです。


フランスの葡萄酒には亜硫酸がわずかに入っているそうです。これは法律できめられていて、
この亜硫酸を入れないとワインはすぐに酢になってしまうのです。ロマネコンテ、シャトーマルゴー、
シャトーオーブリヨン、シャトーラフィット、そのほか名前を聞いているだけで倒れしまいそうな
高価なブランドワインでさえ、この亜硫酸からは離れられないのです。これも一種のカオスですね。
許されなくてはいけない存在もあるものです。


また、当工房ではカシュー塗装も行っています。この場合はセラックニスを下塗りか中塗りまで行います。
カシューはカシューナッツの実を絞った成分を主体としたもので、仕上がり後の塗料重量がとても軽い塗料です。塗装が軽いとボディ(材木)の振動を妨げる要因が減り、その結果ギターはよく響くようになります。




ネックはそのギターの性格を決めるほど大切な部分で、軽くて強度があり、
音の振動を素早くボディに伝える材でなくてはいけません。作り方もその材の性格を損なわない方法を
選ばなくてはなりません。つま弾かれた弦の音(振動)がフレットを通して、ネックの内部を決められた
スケール分だけ、途中で波動エネルギーを減少させることなくボディに伝え、
ボディから出る音と混ざりあう必要があるのです。波動エネルギーを損なわず振動が伝わった時の
総合的なギターの音は、歯切れが良くて詰まりのない力強いサウンドになるはずです。



こうした趣旨のもとで製作したクレセントムーンは弾きこむことにより、
塗装や木部の各部全体が更になじみ、大自然の響きをもたらせてくれるようになってきます。
製作後6ヶ月くらいでより良い方向へ音に変化があらわれます。1〜3年も弾きこめば、ちょっとつま弾くだけでサウンドホールから1950年代のあの夜空のような星たちが飛び出してくるような音になります。音の弦離れがとても良くなって、濁りのない綺麗なサウンドを楽しむことができるのです。



ギターを購入してちょっとしか弾かずに、好みの音にならないと言ってすぐに弾かなくなられる方がいますが、
これはいけません。

クレセントムーンに限らず楽器全般に言えることですが、あなたに縁があって手元に届いた楽器
なのですから6ヶ月から1年は最低弾き続けてあげましょう(購入されるときは自分スタイルにあった
セッティングにしてあげて、弾きやすい状態にしてあげることが大切です) 。
ギターは弾きこむことによって、手をかけることによって育ててあげる楽しみがある道具なのです。
是非、あなた専用のギターを育ててみてください。
 
                                         

年々減少していくギター用材に感謝!敬礼!

                                       クレセントムーン製作者  日比伸也